あの企業の歴史を(^ω^)その6

掩搾式がもみ洗いなら、噴流式はさらし洗いといってよかった。


しかも掩拝式は概拝翼を回すために丸型で、しかも水が跳びはねるので戸外か風呂場に置かなくてはなりません。


ところが噴流式だと、角型で、台所の隅にでも置いておける。


これを知った歳男は、すぐ生産をストップさせました。


そしてすでに量産態勢に入っている掩拝式をやめて、製造方法も複雑な噴流式に方向転換させることにしました。


それは敵前で全艦隊の方向を転換させた連合艦隊の司令長官東郷平八郎の決断に似た英断でした。


けれど開発に要した費用の捻出難と、研究に従事した技術陣の挫折感は拭い難い。


だが、歳男社長は噴流式に踏み切って、突貫作業で、ようやく販売に漕ぎつけました。


この時、木暮実千代をイメージ・タレントに起用して、サンヨー夫人というネーミングで宣伝したことが当って、サンヨー夫人の洗濯機は売れに売れました。


そして三洋の知名度は全国的に広まったのです。

あの企業の歴史を(^ω^)その5

昭和二十入年一月、三洋は資本金を一億六千万円に増資して、祐郎が専務、薫が常務に就任、次はテレビだというのでテレビ受信機の研究に着手した。


ところが歳男社長は、家電の次の目玉は洗濯機だというので研究に打ち込みました。


一人一カ月の洗濯量十ニキロとして五人家族で六十キロ、三年で二千百六十キロ、これは動物園の象一頭分の目方に相当するというので、技術陣を集めて、「日本の主婦は、象を素手で洗ってるようなものやで」だから洗濯機が必要と強調した。


彼は各社の洗濯機を社長室へ持ち込んで、性能テストに熱中した。


そしてやっと量産態勢に入って、値段も半値に下げられるという見通しがついたので、住友銀行へ融資の相談に出かけていきました。


すると鈴木頭取は、うちではイギリス製の噴流式洗濯機を使っているが、布地が傷まなくてよいと、カタログを見せてくれました。


それを目にして歳男は愕然としました。


いままで撹絆式が当り前と思って、それ以外の方式をまるで考えたことがなかったのです。

あの企業の歴史を(^ω^)その4

虹をかけるように急成長。


いずれラジオ時代がくるというので、薫はラジオ製作の研究にふけり、祐郎は総務を引き受けたが、折から起こった朝鮮動乱が特需景気をもたらして、日本経済はようやく低迷期を脱した。


そして昭和二十六年、民間放送が認可されて、予想どおりラジオ時代が到来した。


一万円以下の値段で十万台売ってやろうと薫資材部長は考えていたけれど、木製のキャビネットではどうしてもコスト高になります。


そこでほかにはない新機軸を打ち出すために、プラスチック製のラジオをつくることになりました。


この新型ラジオSS-五二型が量産されて市場に出ると、これが大ヒットして、発電ランプに次ぐ第二の柱となりました。

あの企業の歴史を(^ω^)その3

東京出張中の歳男は呆然としたけれど、電話をしてきた後藤に、すぐ帰るというかと思うとこれから秋田へ木材を買いに行くさかい、後は頼むでと帰阪を口にしなかったそうです。


そして、歳男より先に焼け跡の工場へ木材が届いた。


その後、発電ランプが、やがて再開されることになった海外貿易の輸出適格品として、GHQのテストに合格した。


歳男と後藤達は抱き合って、男泣きに泣いた。


昭和二十五年、次男祐郎、三男薫も三洋電機に参加することになって、井植三兄弟がともに力を合わせて三洋電機の発展をはかることになりました。


それを機会に三洋電機は法人化しました。


資本金二千万円、従業員四百人、売上高は年額六億円と、短期間に急成長を遂げていました。

あの企業の歴史を(^ω^)その2

彼には、人を酔わせる魅力があって、不可能を可能にしてみせようという、やる気を起こさせました。


だが、資材と電力の不足には泣かされました。


しかもやっとつくり上げた発電ランプは思ったように点灯してくれませんでした。


苦心惨憺してようやく欠陥を克服したけれど、悲しいことに販売網がまだなかったのです。


すると幸之助は、自社でも発電ランプをつくっているのに、これをナショナルランプとして市場へ送り出してくれました。


こうして松下ヘブランドを返すまでの間、三洋の発電ランプはナショナルのブランドで市場へ流れていったが、昭和二十二年十一月三十日、漏電のため守口工場は火災で焼失しました。

あの企業の歴史を(^ω^)その1

昭和二十二年、二十人で創業。


つくり上げた停電灯は、生産が追いつかないほどよく売れました。


その頃、幸之助は、後藤清一支配人を出向のかたちで、歳男の新会社に派遣してくれました。


さらに岩佐三郎達六人が加わって、創業を支える七人の侍となりました。


歳男は太平洋、大西洋、インド洋と三つの大洋に雄飛すべく、新社名を三洋電機製作所と命名した。


かつて松下電器が使っていたけれど、戦後空き工場となっていた兵庫県加西郡北条の工場を譲ってもらって、昭和二十二年二月一日、歳男は二十人ほどの社員達とともに創業の式典を開いて、"三洋電機製作所北条工場"の看板を掲げた。


その時、彼は近い将来、ここでつくる発電ランプは二百万個売れるようになる、そして世界中の自転車常用者を約十億人として、その半分の人達に使ってもらうことを目標にしたいと演説しました。


それはあまりにも大風呂敷すぎて、夢を追いすぎるようだが、歳男の口から出ると、まんざら大法螺に聞こえませんでした。

オススメ度★3つ その8

「大連港で」清岡卓行著

私は「野球という市民の夢」という章にもどうしても触れておきたいです。

プロ野球選手であった田部武雄について書かれています。

後楽園スタヂアムの野球体育館に彼の胸像が残されているといいます。

大連実業団で活躍した選手だが、一時は巨人軍にいたこともある。

天才につきもののどこか非運の影があり、沖縄戦で戦死したといいます。

その田部を中心に据えて、大連市民の野球熱について書かれているのだが、当時の市民生活の哀歓を通じて、大連の日本統治時代の光と影を伝える深々とした文章となっています。

オススメ度★3つ その7

「大連港で」清岡卓行著

日本人はロシア人の設計の上に、近代的な大都市を作っていった。

そのために大連の独特の市街ができあがった。

しかもこの地は中国の土地であり、中国人の力なくしては何もできない所なのだ。

いわば西洋と東洋の夢と力が合作してできた街だったのです。

オススメ度★3つ その6

「大連港で」清岡卓行著

岩波書店の「広辞苑」の初版では「たいれん」と「だいれん」のこつの項目があり、説明の文章は前者に入っていて、清岡氏は、次々と傍証を積み重ねていって、遂に第三版でそれを逆転させる。

第三版ができ上がって、書店でそれを見たとき、「おお、直っている!」と思わず叫んでしまう喜びが直かに伝わるような思いがする。

大連は、帝政ロシアがアジアにおける待望の不凍港としての大きな夢を抱き、パリの街並をモデルとして建設した。

それが完成間近のとき、ロシアは日本に敗れた。

オススメ度★3つ その5

「大連港で」清岡卓行著

清岡卓行氏は生まれ故郷の大連を三十四年ぶりに訪れた。

それは四泊五日の短かい旅であったが、その時の経験を執拗に追求して、幾つかの作品を書いてきた。

本書は、自由な連想の形式が、字義通りにのびのびと展開されていて、実に愉しい読み物となっています。

大連の歴史について文中に簡略に記してある部分を引用してみよう。

「大連とその付近に急激で異常な変化が生じるのは、清の時代の十九世紀後半からです。英仏連合軍の上陸。日清戦争。それに勝った日本による遼東半島の領有。三国干渉にもとつく清へのその返還。帝政ロシアによる関東州の租借とダーリニ建設の着手。

日露戦争。それに勝った日本による関東州の租借とダーリニの後身としての大連の継続的な建設。この日本統治時代に清が亡び、中華民国が興った。第二次大戦における日本の敗北。ソ連軍の大連への一時期の進駐。新しく成立した中華人民共和国による統治。」


大連を「だいれん」と読むか「たいれん」と読むか、思い悩む章は、読者として実に愉快な文章です。

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