バイユーのタピスリー・・・その3
バイユーの刺繍もガーンジーの編物も、このようにヴァイキングが媒体となってヨーロッパ南北の手芸を結び合わせた結果だった、と考えられるのです。
ノルマン王朝の設立に手柄を立てたウィリアム征服王の異母弟ナドが、その政治的野心のためにイギリスから追放されたあと、余生をすごしたのも、同じヴァイキングの国シチリア島のパレルモの宮廷であったことも、こうした南北の交流の深さを物語っています。
そして、この作品の形式についてもうひとつつけ加えます。
パイユーの壁掛けはリネンの地布に図柄を刺繍してあるだけでしたが、その後、十四世紀から十八世紀にかけては、殊に毛糸刺繍の場合、地布をべったりとステッチで埋めてしまうようになっていました。
だからこそ、十八世紀にこの作品が再発見された時、人々はこれを未完成品と見なしたのです。
すでに述べたように、タピスリーというのは本来つづれ織りの壁掛けであるはずなのに、地布を刺繍で埋めつくした織物まがいの刺繍という意味にも用いられるのは、このような十八世紀の習慣によるものなのです。